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戦前のエイサー
戦前、平敷屋エイサーは東、西の二組に分かれ、二十五歳以下の男子青年団員だけで踊られていた。踊りは地謡三人、太鼓打ち十二人、手踊りする者(男役、女役に分かれる)数十人、中わき(手踊りやサービス係)数人、ハントー(酒ガメ)担ぎ二人で構成され、踊りの始まりはハントーカタミヤー二人が最初に出場して寸劇を演じた後、エイサー踊りをするテークチリ(太鼓打ち)、ヂーヌー(手踊り)、中わきの順序で全踊り人数を場内に招き入れるところから入羽(イリハ)と続き、エイサー踊りが開始される。

テークチリ(太鼓打ち) |

ヂーヌー(手踊り)
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ナカワチ |

三線
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いまでも最初の演技は昔からの慣習によって東西とも七月節、二合小、の二曲を踊り、そのほかはエイサー踊りに相応しい昔からの歌や新しい流行歌に太鼓打ち、手踊りの演技をそれぞれ振り付け、本番(旧七月十五・十六日一)とくにエイサーの夕べには東、西とも、およそ二時間程度の時間を踊り、大勢の観衆に披露している。
演技をする太鼓打ち、手踊りの服装は現在の通りの紺地に白タオル、裸足であった。
昔から平敷屋エイサーの特長は、二十五歳以下の青年だけで構成し歌や三線と合わせて入羽から出羽まで間隙なく、一糸乱れないバチさばき、黒と白の装束で素足、素朴で踊りの中に、内から湧き出る迫力、パーランクーの打ち方と返し方、腰の降ろし具合、足の運び方など隊列の美しさが見事に調和し、群舞する演技の深さや農村芸能としての伝統の重みを感じさせる真剣な踊りはすばらしく、見ごたえのするところであろう。
とくに入羽で前進しながら頭上から強く打ちおろすバチさばきは勇壮活発である。最近、東西の青年会を標示するための旗頭が先導している。
入羽は東西とも秋の踊り(道輪口説)で一列縦隊で入場し、円陣のまま東西とも二曲(七月節、二合小)を踊り三曲目は一列で踊った後、前進しながら踊り、会場中央で二列になる。次の踊りからは二列から四列になったりして踊り、静から動へ、動から静へと隊形を替えながら変化に富んだ演技は古典的で躍動感に満ちた昔ながらのエイサーである。
戦前のエイサー練習は、旧七月七日のタナバタの夕方から東青年団は中道(今の慰雫碑の束側)で、西青年団は闘牛場(ウシナー、現軍用地内)でそれぞれ練習を行っていたが、戦後は旧六月の初旬頃から東側は平敷屋小学グラウンドで、西側は公民館広場で行っている。
戦前から東西に分かれてのエイサー練習は厳しく、何回ともなく繰り返して行われ、今日まで昔からのエイサーが守られている。
昔から見方によっては、東のエイサーは力強く踊り男性的で、西のエイサーはしなやかな動作で踊り女性的であるといわれている。
ところが盛んな平敷屋エイサーも、大正四年(一九一五年)には、第一次大戦の影響で禁止され、その後、十年間エイサーは行われなかった。大正十四年二(一九二五年)に再びエイサーを復活して毎年の行事として続けられていたが、さる第二次大戦下でも、およそ五年間、中断した時期(終戦前後)もあった。
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