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戦後から現代 ─── 芸術性の高さ 全国で評価 ───
戦後疎開先から復帰した後、一九四八年(昭和二十三年)当時の青年会では、会活動の一環として又は区民の強い要望によって再びエイサーを復活し、今日まで引き継がれている。
戦後は地謡五、六人、太鼓打ち二十数人と増え、手踊りも女子青年が緋の着物を着装して草履ばきで参加するようになり、エイサーを踊る構成人員は東西とも八十余人と増員され現在に至っている。特に平敷屋のエイサーは青年会の年間行事の一環として行われるもので、戦前から戦後においても児童、生徒などの参加は認められない。また青年活動による資金迭成の一環として行われている。

平敷屋のエイサーは一九五三年(昭和二十八年)旧七月十一日那覇高校グラウンドで行われたはじめての全島エイサーコンクールで優勝した。
同大会には、各地区代表が出場し、全出場チームの演技が終った後の審査では、どちらにも優劣付け難く若干の時間を要したが、審査の結果は平敷屋エイサーに決まった。
講評で分かったことであるが、
「他のチームより人数(およそ九十人)は少ないが、昔からのエイサーを演じ、技の芸術性の高さと整然とした体系によるものであり、高く評価する云々」
と講評されたのである。

その後、沖縄市(コザ市)主催のエイサーコンクールでも一九六四年(昭和三十九年)から一九六六年(昭和四十一年)までの三カ年間連続優勝している。なお昭和四十八年(一九七三年)九月二日奥武山陸上競技場で行われた沖縄青年団協議会と沖縄タイムス社共催のエイサーコンクールでも優勝しており、また、昭和五十六年(一九八一年)四月十二日東京中野サンプラザホールで第四回「日本の民謡北から南から」が行われた戦没者遺骨収集促進基金のチャリティー公演に、全国から二十種目の各県代表が出場したが、沖縄県からは平敷屋青年会のエイサーが代表として出演した。

平敷屋青年会では先輩の宮城松生さん、多嘉良昇さん、恩納昇さんらをリーダーとする男女会員三十人が参加、同日午後一時と四時半からの二回に出演し、同大会の最後をかざる出し物として、勇壮な群舞を舞台いっぱいに繰り広げ観客から万雷の拍手がおくられ、大いに好評を博した。このことについては当時、東京の各新聞社では大きく報道して、広く全国に紹介した。

平敷屋では、以上のようなことを誇りとして伝統的文化芸能保存の面から、その後コンクールには出場せず、青年会の年中行事として旧七月十五日は部落内の拝所(ヒッチャマー)前広場で、旧十六日は平敷屋小学校グラウンドで青年会主催による東西のエイサーの夕べを催し、区民をはじめ、愛好者の観覧に供している。
最近では、昭和六十二年(一九八七年)「日本の民謡北から南から」(東京)に沖縄県代表として出場し、平成三年(一九九一年)「九州民俗芸能大会」に沖縄県代表として出場し、地元内外から高い評価を受けた。

以上のとおり、平敷屋エイサーは昔から農村青年の健全娯楽として永く続けられ、厳然たる歴史と伝統を誇り、踊りが整然としている点では多くの人たちから広く知られている。

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伝統の担い手たち・旧盆とエイサー】 【エイサー保存会日本の音風景百選


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