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タキノー

陣那原三四七二番地一字平敷屋所有の山林一平敷屋集落の東南側 で、標高七〇・八米の東西に延びた丘。この丘の麓に沿って池がある。
言い伝えで、平敷屋朝敏が平敷屋村に滞在中水不足の折池を掘 りその土で山を作った。その山(小丘)をタキノーと呼んでいる。
頂上部に赤瓦葺きの平屋があり、その東側下方に朝敏歌碑が建てられ、タキノー公園となっている。(詳細は別記)
戦前、字平敷屋の葬礼の習慣では必ずこのタキノーを通り、ここに一時禽をとどめて、死者に「最後の別れ」を惜しませる風習があ
って、戦前まで行われていた。
この風俗は平敷屋朝敏が当時寓居中その示唆によって始められた ものか、或はタキノーができない以前から行われたものを一時停止
の場所だけをここに変更したものであるかは判然としない。 ※註 平敷屋タキノーは、勝連指定の文化財第一号である。
その時評の碑文がタキノー丘の東入口の右側に次のように提示さ れている。
勝連文化財指定第一号 平敷屋タキノー
この地域は平敷屋タキノーとよばれ、標高七十米余りの小高い丘 です。一七二七年脇地頭一領主一としてこの地を配せられた平敷屋
朝敏は、水不足になやむ農民のために、ため池をほりました。その 時ほり出した土を盛り上げ築いたのがこの丘だと伝えられていま
す。
近年住宅化が進み、タキノーや池も整備改修がなされ昔と趣を異 にしたが、勝連半島を取り巻く大平洋のみはらせるすばらしい景勝
地です。
一九八六年には、和文学者であった朝敏の歌碑記念碑も建 立されました。
また、近くには御嶽やヒータティムイ一のろし台一や平敷屋古島 遺跡もある。昔の集落を研究するにも貴重な史跡です。
文仏財保護条例により、勝連指定文化財に指定する。
平成二年三月二十六日■■■■■■■■■■■■■■
勝連教育委員会 ■■■■■(但し、右の掲示は横書きである)
また、タキノー丘頂上部の東側には、平敷屋朝敏の歌碑と碑文が 建立されている。
歌碑
■■哀そのはた打ちかへすせなかより
■■■ながるるあせや瀧つしらなみ
碑文
平敷屋朝敏は一七〇〇年首里金城村に生を受け、一七三四年三四 はっつけ 歳の若さで安謝港に於て「八付」にされた。世にいう"平敷屋、友
寄事件。によってである。
朝敏は、薩摩支配下における苦難の時代に、士族という自らの身 分におごることなく、農民を始めとした弱い立場の人たちに暖かい
眼差を向けることの出来た、沖縄近世随一の文学者でありました。
思えば、朝敏の憂き目は、当時の封建支配の原理道徳に背を向け ようとする、人問としての優しさゆえの到達点であったと、言い得
ることである。
このタキノーは、朝敏が脇地頭在任 中当地平敷屋に滞在した折、農民の水 不足を解消するために用水池を掘り、
その土を盛りつけて構築したと伝えら れている。更に彼の和文学の作品「貧 家記」には、碑に掲げられた和歌を始
め、当時の勝連の風物や貧しかった領 地領民の生活環境が四十首の和歌とと もに描写されている。
「貧家記」のなかの一首
■■■入日さすまつはら近くみつしほを
■■■■■あすなが崎のあすもきてみん
は、夕暮の半島のはずれ、「あしな」浜 を詠んだものである。
琉球和文学の粋を極め、組踊「手水の縁の作者でもある朝敏はまた、物ごとの本質を見つめ続けよう
としたすぐれた批判精神の持ち主でもあった。次の琉歌はその一端 を吐露してあまりある。
■■■■四海波たてて硯水なちも
■■■■■■■思事やあまた書きもならぬ
平敷屋朝敏没後二百五十年の節目(一九八四年)に、私たちは多 くの人と人との出合いを機縁にして、朝敏歌碑建立のための期成会
を発足させた。
そして今、朝敏がこよなく愛したと伝承されるこの地平敷屋タキ ノーに歌碑を建立し、永く平敷屋朝敏とその志を讃えるものである。
一九八六年三月三十一日 平敷屋朝敏歌碑建立期成会
なお、歌碑の設計管理は兼浩設計代表者、兼堅浩一氏、歌碑の執 筆者は大井耕太郎氏、碑文の執筆者は我如古盛治氏、建立工事は琉
球石材代表者、幸地清光氏。
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