沖縄県 うるま市 勝連 平敷屋自治会
サイト内検索

Home > 歴史 > 平敷屋朝敏

   平敷屋朝敏の生涯

 平敷屋朝敏については、初版の勝連村誌や町史二又は広報かつれんなどに詳しく記述されているが、朝敏と平敷屋との関係は深く、それらの史料などから要約して略述することにした。

 (一)生い立ち
 平敷屋朝敏は、いまからおよそ二九〇余年前の一七〇〇年尚貞王三十二年(元禄十三年)庚辰十一月三十日、王府の所在地首里の金城村(今の那覇市首里金城町)に生まれた。
 朝敏の生家は、王一家の居室や御書院にある南殿に近い南崖下、約三十米ばかり離れた展望のよい所にあって、四粁ほどの南西には那覇の町と港が見え、そのむこうには遠く慶良間鳥が見える。
屋敷のすぐ南側は、金城村が傾斜になって続き、谷をこえて高台の識名村に通じ、そのむこう側に南部の諸間切もわずかばかり展望される。朝敏家の遠い祖先は、第二尚氏の一代尚円王である。
王はすぐれた人物であった。

朝敏は、すぐれた尚円の子、尚真王の嫡子、尚維衡の次男豊見城按司の子孫である。
祖父の朝治は、国頭問切を領有して国頭親方と呼ばれ、漢学者で湛水流の三線の大家でもあった。
音楽に長じた朝治の次男が朝敏の父の朝文である。温厚な人物で作品は残されていないが、和歌や琉歌を詠み、湛水流の三線も上手であったという。
身体の弱かった彼は五十七歳で隠居し、六歳の朝敏が家を継いだ。朝文の妻は湛氏(音楽家湛水親方の一門)で阿母志良礼として聞得人君(国王の姉妹が任ぜられ、宗教上の最高の権力を有する)の下で祭事を預かっていた。朝敏は以上のようなすぐれた祖先の血を受け、芸術的資質を多分に受け継いだようである。

朝敏は幼いころから自我の強い性格で、しばしば父母を困らせたようである。父母に叱られると叔母(大宜味間切総地頭朝槽の妻)真鶴金の所へ逃げて行った。この叔母は特別に朝敏をかわいがっていたが、その才能を愛してわがままを許していたのであろう。朝槽は、朝敏の事件や逸話を集めた覚書があったが、第二次大戦前に紛失した。それを朝槽の了孫の朝親(昭和十二年九十三歳で死亡)が記憶していたのを朝敏の子孫(養子)の饒平名浩太郎氏(大井に改姓、元沖大教授)が今に伝えている。

 朝敏は六歳のころから叔父の朝楴(一七〇九年)宝永六年綱吉将軍蕣ずる時の慰問使)について書を学んだが、神童のほまれが高く、その上達の速さには大人が驚いたといわれる。
 朝敏が初めて出仕した時期の役職や明らかではないが、一七一八年(亨保三年)六月十五日、八代将軍吉宗の慶賀使、越来王子朝慶に随行して薩摩の太守公と共に上京し、江戸に着いたのが十一月八日で、翌年三月六日薩摩を通って三月十九日帰国している。

江戸滞在中、深川の本誓寺(浄土宗)でその師は不明だが、仏教を学び、かたわら源氏物語や伊勢物語、和歌等を学んだという。
旅とはいえ本誓寺を訪ねたことは、人生苦に悩んでいた彼が、仏教に魂の調和を求める一方、文学にも人間性の真実を求めてやまなかったからであろう。帰国後間もなく書かれた短編小説「若草物語」等には抑圧される人間性への苦悩と、仏教思想の濃化が見られるがこのごろの感化の大きかったことを語るのであろうか。

本誓寺の檀家の一人に当時、国学者に生活の援助などをしたという豪商で国学者でもある村田春海がいた関係で、同寺は以前から国学者の出入があったものと想像される。もしここで、万葉集の研究のなかで、人間性の肯定を自覚しはじめていた契沖の思想に問接にでも触れたとすれば、本誓寺での修行は、朝敏の人間形成の大きい
機会ともなったと考えられる。


【生い立ち】 【失意時代と創作】 【革命時代】 【里之子墓】 【平敷屋朝敏と平敷屋
朝敏の愛人】 【村固めの強い平敷屋】 【貧家記紀行


<<BACK

| Home | 地理・自然 |文化・芸能 | 歴史 |産業 | Mail |

平敷屋公民館 主催 :平敷屋自治会
沖縄県 うるま市 勝連 平敷屋4068 〒904-2314
□ Copyright © 2000 Okinawa-Johokyoku All Rights Reserved.
□ □当サイト内のすべての内容につきまして 無断転載を固くお断りいたします。