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(三)革命時代 和文学愛好の同志が集って朝敏を師として塾を開くことになったのは平敷屋村から帰って二、三年後のことで、尚敬王の十九年頃(亨保十六年頃)であっただろう。約三十名が朝敏の家に集まって学習が始められた。 この頃の朝敏が「若草物語」や「苔の下」に見られた絶望的現実観をのり越えて、現世での幸福を信ずるようになって来たことは、この頃書かれた短編小説「まんざい」によって知ることが出来る。 舞台は勝連問切内間村である。その主題は、平敷屋村居住当時、彼の内面に熟しつつあった思想の形象化であろうと考えられる。 彼は農夫のわざを見て、 「あはれそのはたうちかへすせなかより ながるるあせや滝つしらなみ」 は百姓の労苦を思いやった歌である。 日に焼けた百姓の背を流れる汗に厳しく注がれる。それは「あはれ」という言葉が示しているように、抑圧者への厳しい批判と弱者への暖かい愛情に満ちている。そのように生活苦と闘う百姓の内面に触れて、彼の人間性は高揚し、それが万葉調に象徴されたことを見たのであるが、平敷屋の頃までは、暗いべールに包まれた封建社会の矛盾は、疑問となり映りはじめてはいても、その構造の意味はよく分からなかっただろう。 首里に戻って目の当たりそれを見、それを熟慮して、はじめて彼の眼に浮かび上がってきたのが封建社会の支柱である義理であっただろう。 「まんざい」にはそれらが主題となった。 1落書 同志の門下生によって薩摩在番所横目西川平左衛門宅へ再三にわたって落書のなされたのは尚敬王の二十一年の終り頃から翌年の二月か三月頃にかけてであっただろう。落書の内容は、政府の諷刺であったと考えられる。当時は落書でさえ事件となったのである。朝敏の落書は三、四回にわたっている。 誰のほれ者の筆とやい書ちやが 酒や昔から恋の手引き (訳:どこの馬鹿者が筆をとって書いたか、酒は昔から恋の手引きであるのに。) は、禁酒という尚敬王の直筆の碑文に対して朝敏が訊刺したものという。外にには、 四海波立てて硯水なちも 思事やあまた書きもならぬ (訳:四方の海を波立つ硯水にしても、思うことは多くて書き足りない。) などがある。 「誰のほれ者」「四海や」なども、その内容が明らかに政治批判であるから、これらが落書であったとすれば、落書だけでも、重流刑に相当したかも知れない。 2 政治革命 以上は落書から見た事件の内容であるが、彼の事件は、政治革命ではなく、単に支那思想家としての察温と日本思想家としての朝敏とのイデオロギーの対立であったとする説もあるが、系譜や処刑の方法等を考えると、それには問題があるようだ。 その頃、法司であった察温の指導で調査が開始された。察温は重大事件発生を理由に武士の総登城を命じ、缶詰にして厳重な尋問がなされたが、それでも首謀者や犯人が発見出来なかったので、察温は策をもって三日間の釈放をし、部下を朝敏の家に潜伏させた。そうとは知らぬ朝敏は晩、寝床の中で「問題の投書は自分がやった」と妻に話したところを、すかさず踏み込まれてその場で逮捕となった。同志の友寄親雲上や他の同志もすぐに逮捕された。全員十五名で弟の弥覇里之子も、投書の使いに立った下女のナビもその中にいた。 処刑は、一七三四年(亨保十九年甲寅六月二十六日)安謝港で重刑者に適用される串刺しによって行われた。串刺にもいろいろあって、朝敏の場合は、とがった木で体を貫いて殺す方法で、六十人で実行されたという。 なかなか落命しなかったので、最後は母と共に立会うことを許された長男の朝良が止めを刺したという。 |
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