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 (五) 平敷屋朝敏と平敷屋
 組踊り手水の縁(ハンザヤマー)で広く知られている平敷屋朝敏は、尚敬王の治世中に三十五歳の若さで

 乱れ髪さばく世の中のさばき
   引きがそこなたら垢もぬがぬ

の辞世を残し、八付の極刑に処せられて、安謝港の露と消えた琉球史上希有の薄幸の才人として、今にその刑死が惜しまれている人である。
 その領地平敷屋に寓居中の作といわれる貧家記は、 「貧しうなりきて調度やうのものさへ人のものとならしめ、今は 田舎へこそと、そのいそぎするにも哀れなること多かりき、師走のそれの日の曙に都(首里)を出でて、小那覇という所より船出す」
と書き起し、
 「しわすなかの三日、おほやけの御かえりみをかうむりものの司 になりて都へのぼるとて」
云々と結ばれてあることによって、約一カ年間平敷屋村に佗び住まいをしていたことがうかがわれる。それは亨保十二年(一七二七年)彼が二十八歳の師走から二十九歳の師走までとされている。
貧家記に
水無月(旧六月)のころいみじうあつきに農夫のわざをみて、
  あはれそのはたうちかへすせなかより
   流るるあせや瀧つしらなみ
ただいまかれが身にあらばいかばかりかはくるしからむ。まづしけれど我は安楽の人なり。


 旧六月の真昼中、焼きっくような日光の下で、もろ肌ぬいで、玉なす汗を拭きもあえず乾ききった小石混りのかたい土を打ち起している老農夫のいとなみに、心動かされて口ずさんだものであろう。

百姓は働くもの、士は遊ぶもの、これ天の定めとしか考えていなかった時代に、さすがは人間平敷屋である。領民の労苦を思いやって
「貧しけれども我は安楽の人なり」と述懐している。常に水不足に悩んでいる領民の窮状を見るに忍びず、池を掘り築山を築かせて水の悩みを解消し、眺望の雄大な絶佳を以て聞こえる天下の絶景「平敷屋タキノー」をつくって、後世の領民にまで、その恩恵に浴せしめているのも故なしとしない。

 平敷屋には、いまでもあまり明らかではないが…。葬式の際の葬列は、タキノーより北東側に在る家庭でも必ずこのタキノーを通り、途中の道で一時禽をとどめて死者に最後の別れを惜ませるという風習があって、終戦時まで行われていた。この風俗は平敷屋朝敏が当時寓居中、その示唆によって始められたものであるのか、或はタキノーが出来ない以前から行われていたのを、一時停止の場所だけをここに変更したものであるかは判然としない。
 一説によると、タキノーは昔から自然の小高い森があって、その上に他から掘り出した土を盛り上げて作ったのが今日のタキノーではないかという。=いずれ土質などの調査が必要であろう。



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