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(六)朝敏の愛人 朝敏は平敷屋に寓居中、当時村随一の美女といわれた「シリ門ウシー」という情人があったとの口碑がある。ウシーは朝敏寓居の屋敷(現安里亀一氏所有)とシル山という拝所(現ゲートボール場の南側)一つ隔てた一農家の娘であった。 二人のロマンスについての伝えは何も残ってないが、朝敏が処刑されるや、ウシーも特別の関係者であったというだけの理由で宮城島に遠島の刑に処せられ、同地で世を終り、その位牌は一時期平敷屋の仲嶺家に祀られていたが、現在前田家(屋号門屋)に祀られている。 ウシーの遠島は公儀によるものではなく、娘の不義をいましめるためにその実父が強行したという異説がある。 ある研究小論によると、伝説として=平敷屋の隣りの内間村に美しい遊女(後門<しりぞう>ウシ)が居てよく通ったという。一説には彼女の住居の跡が朝敏の屋敷の裏にあるともいう。 彼女は朝敏が罪を得た時、宮城島(与那城間切、朝敏の妻子がここへ流された)に移され、そこで生を終えたという。 =ところが、朝敏が首里の生活を思い切り平敷屋に行くことになったのは、亨保十二年(一七二七年)の頃となっており、朝敏が約一年間、平敷屋村で真実な経験を通じて人間的に成長し、物の司(役人)となり首里に帰ることになったのは翌年の亨保十三年(一七二八年)尚敬王の十六年頃であると記述されている。 また勝連史二などによると内間村は、宇段坂(勝連城跡の下方)から平安名大田原に移動し、当時勝連間切の各村や地勢の概要を詠んだ次の「勝連口説」に 勝連の南北(へにし)内間与那城 島崎や平敷屋安勢理饒辺 と歌われているように、今でも古島と呼ばれている。その後、人口が増えたほかなどの理由により、現在の部落へ移動を終了したのが一七六〇年(乾隆二十五年)と伝えられている。このように考えてみると、内間村が移動する以前の三十二年前に朝敏は首里に帰ったことになり、従って平敷屋村の隣り村とは言えないであろう。 なお勝連村誌年表には、与那城間切の新設が一六七六年。朝敏の出生が一七〇〇年、南風原が現在地へ移動したのが一七二七年、朝敏一味十五人の処刑が一七三四年で内問村が移動を完了した一七六〇年より二十六年前に朝敏は既に処刑されていることになる。 また「まんざい」についても舞台は平敷屋の隣り、内間村となっているが、前述からして疑問に思うので「革命時代」の項には略述したことを付記する。 (七)村固めの強い平敷屋 平敷屋は昔から村固めの強いことで他に比を見ない村といわれている。即ち村内法その他住民の実行事項として、一旦村吟味(字協議)で取り決めたことは、すべて厳格に実行されたということである。 戦後とくに著名になった「平敷屋エイサー」もこのような伝統と平敷屋青年の積極性や真剣さに負うところが多いのではなかろうか。 平敷屋のこの伝統は、古代勝連の支配階級の子孫の多いことや、領主平敷屋朝敏の一か年に亘る寓居などと何等かの関係があるような気がする。 ── 終わり ──
朝敏の作品「貧家記紀行」につて |
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